漱石―絵はがきの小宇宙/川端文学のヒロインたち

2016年9月24日(土)~11月26日(土)  

―「小生は人に手紙をかく事と人から手紙をもらふ事が大すき」―

夏目漱石 大正3年12月、「硝子戸の中」執筆の頃

夏目漱石 大正3年12月、「硝子戸の中」執筆の頃

 展覧会は終了しました。多くの方にご来場いただき、まことにありがとうございました。

漱石と絵はがきについて 

 わが国で私製はがきが認可されたのは明治33(1900)年である。絵はがきはそれに伴って急速に発展した。当初は表に宛名以上を書くことが禁じられたので、通信文は裏の余白の短文となった。絵の主流は各地の名所・風俗の写真で、鉄道の発達が実地見物の助けとなった。日露戦争時代は戦勝記念や戦地からの異国の写真で賑わった。水彩絵具も出廻っていて、専門の水彩画家も出現(三宅克己、丸山晩霞ら)、島崎藤村の「水彩画家」という小説もあった。
 漱石は渡英の船中から「マレー人ノ美人」絵はがきを故国に送っているが、本格的に絵はがきに取り組んだのは帰国後、講義と執筆生活の憂さばらしが動機である。橋口貢、五葉兄弟と水彩画を描き、絵はがきの交換を始めた。
 『吾輩ハ猫デアル』の出版で有名になった彼の許へは、未知の読者を含めて多数の絵はがきが届くようになった。外遊中の寺田寅彦は、行く先々の絵はがきを送った。(うま)(どし)の明治39年、漱石には馬の絵の年賀状が何通も届いたが、秀逸なのは野上豊一郎が出した猫の絵はがき。作中の猫が勢ぞろいで、先生(「吾輩」)はやや後方に位置する。ドイツで印刷したものらしいが、うまく当てはめたものだ。漱石は風景、人物、想像した怪物なども描いたが、作中の絵はがきで特に記憶に残るのは、『三四郎』で美禰子が描いた二頭の羊と悪魔(デビル)の趣向であろう。
 なお本展は岩波書店の特別協力や、学習院女子大、東北大、神奈川近代文学館ほか多くの機関および個人のご厚意で成立した。改めて謝意を表したい。

(編集委員 十川信介)

 

開館時間 午前9時30分~午後4時30分(入館は午後4時まで)
観 覧 料 一般200円(20名以上の団体は一人100円)
休 館 日 日曜日・月曜日・第4木曜日(10月27日、11月24日)
11月3日、23日の祝日は開館
編集委員 十川信介・安藤宏・中島国彦・長島裕子
特別協力 株式会社 岩波書店

 

 

主な出品資料

第Ⅰ部 絵はがきの時代―明治30年代の絵はがきブーム

 絵はがきが世界的なブームになるのは19世紀末だが、日本でも明治33(1900)年に私製はがきの使用が認められてから爆発的な人気を呼ぶことになる。年賀状に画文を記して事前に投函し、元旦に一斉配達される習慣が根づいたのもこの時期のことである。当時はまだ新聞雑誌の写真印刷が不鮮明だったので、異国や観光地から届くはがきの美麗な風景写真は、人々に新鮮な感動を呼び起こしたことだろう。逓信省(現・総務省)が日露戦勝の記念はがきを発行し、収集のブームを呼んだのもこの時期で、絵はがきは国内外の時事、風物を逐一報道してくれる世界の「窓」の役割を果たしていたわけである。
 一方で、自分で簡単な絵を描き、文言を添えて出すことのできるこの通信手段は、家族や親しい知人との間の新たなコミュニケーションの手立てでもあった。明治37年には雑誌「ハガキ文学」が発刊され、絵はがきの作成方法、著名人たちの手になる実例など、さまざまな情報を提供することになる。少年少女雑誌を中心に、はがきの折り込み付録が流行し、手紙文とも違うあらたな文体が開拓されていった。漱石が小説家としてデビューするのは、まさにこうした空前のブームの中でのことだったのである。

(安藤宏)

第Ⅱ部 絵はがきの小宇宙

 漱石のもとに届けられた多くの手紙は、引っ越しなどの折、漱石みずからが焼却していたと言われるが、不思議と絵はがき類は手元に残されていた。ビジュアルな世界への漱石の思い、その小宇宙から思い出される人や土地とのつながりが、そうさせたのであろう。「吾輩は猫である」への反響として、猫が描かれた絵はがきが門下生や読者から何通も届いたことは、昭和3年版『漱石全集』の月報で画像とともに紹介されていたが、漱石が残していた絵はがきの概要を伝えたのは、昭和9(1934)年に出た松岡譲『漱石先生』に収められた「漱石山房の絵葉書」の一文である。わずかだが写真版も添えられたその文には、「数百枚」が保存されていたとあるが、文学者への「宛書簡」がそれほど注目されていなかった時期でもあり、その追跡はなされなかった。
 戦後、昭和40年版『漱石全集』の月報で何通か活字化され、折々の漱石展で若干が展覧されたことがあるが、今回岩波書店所蔵の300通もの絵はがきが紹介されるのは、意義深い。今回の展示では、岩波書店所蔵のものから選りすぐり、他の図書館や文学館などの資料も合わせ、全体を10のセクションに分けて、漱石宛絵はがきの面白さを紹介することとした。漱石自身が描いた水彩画絵はがきの存在も知られており、その一部を展示することが出来たので、絵はがきを通したやり取りも確かめられると思う。

(中島国彦)

1 絵はがきを描いたころ

明治37年から38年にかけて、帝国大学や第一高等学校で講義するかたわら、絵画に親しみ、教え子たちに水彩画を描いた絵はがきを送っている。

 

2 「吾輩は猫である」の反響  

雑誌「ホトトギス」の明治38(1905)年正月号に「吾輩は猫である」は発表された。この年、「猫」の絵のついた年賀状が続々と届けられたことからも、この作品の人気ぶりが分かる。

 

3 門下生から

漱石には多くの門下生がいたが、それらの人々から親しみを込めて送られた絵はがきを紹介する。

 

4 ゆかりの文学者たち

友人を介したり、雑誌や新聞に執筆する中で知り合ったりした多くの文学者たちと交流をもっている。

 

5 海外便り

海外から届く絵はがきは、当時、貴重なものであった。多くの美しい絵はがきが残されている。

 

6 満韓の人びと

漱石は明治42(1909)年秋、南満州鉄道の総裁であった友人・中村是公の招待で、満洲と朝鮮に旅行した。満洲・朝鮮の街や名所は珍しく、写真つきの絵はがきは多くの人に歓迎された。

 

7 修善寺の大患

胃を病んでいた漱石は、明治43(1910)年8月、伊豆の修禅寺で大量に吐血し、一時危篤状態に陥る。
病気療養中の漱石を慰めた絵はがきを紹介する。

 

8 家族とのやりとり

家族への思いがにじみ出るような絵はがきが残されている。

 

9 年賀状のさまざま

干支の絵がついた既製ものや外国製のものなど、色とりどりの年賀状が送られた。

 
10 全国の読者から

全国の愛読者から多数のはがきが送られ、どれほど漱石が慕われていたのかが分かる。

 

岩波書店より中島国彦・長島裕子編『漱石の愛した絵はがき』を刊行。

展示資料のなかから特に重要な絵はがきについて、解説と翻刻つき。
館内でもお買い求めいただけます。

 

記念講演会

「漱石―絵はがきの小宇宙」展開催を記念して、講演会を開催致します。講演終了後は展示解説もございます。ぜひご参加下さい。

会   場 日本近代文学館 講堂
定   員 80名
受 講 料 1000円(維持会・友の会会員の方800円)
※展示観覧料含む
お問合せ
TEL 03-3468-4181(日本近代文学館)

 

 *受講料は当日会場でいただきます。お電話でご希望の日をお伝えください。

 

第1回 漱石と絵はがき

講  師  中島国彦(早稲田大学名誉教授)
日  時 10月29日(土) 14:00~15:30

 

第2回 漱石宛て絵はがきの魅力

講  師 
中島国彦(早稲田大学名誉教授)
日  時 11月23日(水・祝) 14:00~15:30

 

 

 

川端文学のヒロインたち

         (川端康成記念室・同時開催)

 

「伊豆の踊子」「雪国」「眠れる美女」…川端康成の作品には、常に魅力的なヒロインが登場します。

本展では、川端が一高生時代に恋をした伊藤初代をモデルにしたといわれる少女、伊豆や浅草といった温泉場・盛り場の女たち、ダンサーやバレリーナ、母たち、娘たち、そして物言わぬ女性の身体など、川端文学のさまざまなヒロイン像を、肉筆原稿をはじめとする当時の貴重な資料とともに紹介します。

第1部 伊藤初代
 
「南方の火」原稿※
 
大正12年の日記※ ほか
第2部 伊豆の女たち
 川端康成 佐々木味津三宛年賀状 
 「温泉宿」原稿 ほか
第3部 浅草の女たち
 『浅草紅団』初版本
 「カジノ・フォーリーパンフレット」 ほか
第4部 舞姫たち
 「舞姫」創作メモ※ ほか
第5部 美しい目をした少女たち
 「雪国」創作メモ
 「女であること」原稿
  「川のある下町の話」※
第6部 母たち、娘たち
 「自慢十話」原稿※ ほか

 (※印は川端康成記念会蔵)

川端・伊藤初代・三明永無(1921年)

川端・伊藤初代・三明永無(1921年)